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病院前史

福井県立病院前史 ~あまり知られていない1950年以前の当院の歴史について~

1.平岡山

現在福井県立病院がある場所には、「平岡山」という標高33メートルの小丘陵がありました。今ではその姿はありませんが、小鳩幼稚園前の「平岡公園」と周辺自治会に「平岡」の名前が残っています。県立病院立体駐車場北側の歩道をこども療育センターに向かって歩くと、緩い上り坂になっており、小高くなった職員駐車場Bの辺りに山の名残を感じます。

図1は幕末期の福井城下の風景を描いた「福井城旧景」(福井市立郷土歴史博物館蔵)からの1枚です。現在のJR福井駅東口(一乗谷口)辺りから県立病院の方向を見たものと思われます。「中島二ッ門」とは福井城の東の外堀「中島堀」の東端に開いた城門「日之出御門」のことで、現在の福井地方合同庁舎付近にありました。その中島二ッ門の左奥が平岡山で、福井城下からも見えたようです。

図1. 福井城旧景「中島二ッ門」(福井市立郷土歴史博物館蔵)

図2は故・伊崎公徳先生(元福井県立精神病院院長、元福井医科大学精神科教授)が執筆された「私説・平岡山物語」にある写真で、現在のえちぜん鉄道・志比口駅辺りから見た大正時代の平岡山です。平岡山の全容写真は少なく、残っている中でも当時の様子が最もよくわかる写真でしたので、関係者の許可を得て本稿に掲載しました。

図2. 平岡山遠景(伊崎公徳. 私説・平岡山物語より)

平岡山には、古くは平安初期の延喜式神明帳にも記さている「枚岡(ひらおか)神社」があったとされます。1601年に越前に入国した結城秀康は、北庄城(のちの福井城)の東北(鬼門先)に位置する平岡山を重視し、結城笹川にあった不動院を北庄城の鬼門除けとして平岡山に移しました。不動院が城下に移り平岡山を去ってからは荒れた時期もありましたが、その後は福井藩が管理する御立松山となり、幕末には松平春嶽が平岡山南麓で茶園を開拓させました。1902年(明治35年)には、福井市街にあった隆松寺(1574年開基)が平岡山の中腹に移転、信州・善光寺に似せた立派な造りで、春には桜が咲き誇ったそうです。隆松寺は1945年7月の戦禍で全焼しましたが、1954年に小鳩幼稚園を併設して再興しました。現在は平岡公園西側に移転し、旧幼稚園跡地は県立病院の職員駐車場Bになっております。

平岡山では大正末期の1920年代頃から石材の採掘が始まり、河川の護岸や鉄道敷設などに用いられて山容は次第に小さくなって行きました。そのような中、昭和初頭の1930年代に県立病院の前身となる2つの病院が建てられます。ただ1967年からの県立病院拡張事業により平岡山の取り崩しは本格的となり、1976年には完全に姿を消しました。現在がん医療センターの入口近くで目にする「平岡山記念の石」は、消滅前に保存された平岡山の遺石と伊崎先生の解説文です。

次回は福井県立病院の前身の病院と、その開設に尽力した女性事業家について紹介します。

【出典】小寺俊昭.福井県立病院前史1平岡山.福井県立病院広報誌コンパス.2025;72:5

2.冨田千代

図1.冨田千代(福井新聞社編 20世紀ふくい群像 下より)

福井県立病院の前身は、昭和初期に建てられた2つの私立病院です。今回は、開設者の冨田千代女史(図1)、当時の医療の状況について記述します。

千代は1890年(明治23年)現在の坂井市坂井町下兵庫に生まれました。冨田家は代々庄屋を務め、婿養子の父親は県庁勤務と、医療とは無縁の家庭でした。兄が二人いましたが、長兄は生後間もなく死亡し、次兄も医学部卒業を目前に急逝しました。急遽後継ぎとなった千代は15歳8ヶ月にして、現在の越前町朝日地区出身の医師・敦貴を婿養子に迎えました。妹のふみも、現在の南越前町南条地区出身の医師・直を婿養子に迎え、1911年4人は現在の福井市宝永1丁目の辺りに「冨田医院」を開業しました。

1919年には医師を増やして内科・小児科・外科・産婦人科・耳鼻科を備えた「冨田病院」となり、現在の福井市順化に移転しました。当時としては柳下病院と並んで福井市内最大級の総合病院でした。

この時代、日本人の主な死因は結核などの感染症でした(図2)。弥生時代から存在した結核が本格的流
行に入るのは、社会の都市化と産業革命が進んだ幕末以降で、結核死亡率は明治末〜大正期にピークとなり、その後も1935〜50年まで死因の第1位でした。流行の一因として、日本の基幹産業だった繊維産業に従事する若年女工の、高温・塵埃環境下での長時間労働や、狭い住居と共用寝具での寄宿生活などが指摘されています。福井県では絹織物業が盛んでしたが、労働者の99%が女工で、うち74%が20歳未満でした(1900年統計)。結核に感染した女工たちは隠され、家族に蔓延し、しかし県内には結核を診る病院も医師も少なく、感染は拡大しました。1909年の福井県の結核死亡率は全国2位、福井市は1位で、特に15〜19歳の女性が犠牲となりました。

図2.主要死因別死亡率(人口10万人対)の長期推移(1899〜2024年)
(出典:社会実情データ図録 <https://honkawa2.sakura.ne.jp/2080.html>参照2026年2月)

こうした状況を冨田病院院長の敦貴は憂慮していました。一方、千代には別の関心事がありました。夫婦には高熱で脳に障害が残った一人息子がおり、精神障害に対する世間の無理解や医療の遅れを感じていました。1928年敦貴は県当局に、県立または公立の結核療養所と精神病院創設について意見書を提出しました。しかし何の反応もないまま、敦貴は風邪をこじらせ、1930年急性肺炎で帰らぬ人となりました。敦貴51歳、千代40歳の時でした。

千代は夫の遺志を継ぎ、自らの手で結核療養所と精神病院を開くことを決意しました。私財を投入し、寄附を集め、更に県知事や代議士、敦貴の親友だった松尾伝蔵やその義兄・岡田啓介に働きかけて大蔵省から高額の基金を借り受けました。伝染病と精神障害の専門病院ということで用地取得は難航しましたが、反対者を説得し、理解ある地主の協力を得て、福井市郊外の平岡山南麓に広大な土地を買い入れました。そして1931年に結核療養所「財団法人更生会病院」を、翌1932年に福井県代用精神病院「平岡脳病院」を開設しました。

【出典】小寺俊昭.福井県立病院前史2冨田千代.福井県立病院広報誌コンパス.2026;73:7